著者の歴史記事に甚く感銘を受けた読者が在ることに気を良くして、再び現代の日本人が未だ識らぬ日本の国家的起源に関わる驚愕の史実とそれに連なり、西欧史だけに観られる封建領主制を見た中世という時代画期をアジア諸国で唯一経験した日本史の軌跡の謎を此処で改めて紹介したい。

 そも、著者はこの辺りの論考を他のブログで長らく記しており、興味の有る読者にはそちらもまた閲覧して貰えれば幸甚ではある。

 一つはNTTレゾナントのサービスを使って記した『日本史疑』であり、他はライブドアのサービスを使った 『日本史疑』だが、週刊新潮に連載する東大の本郷さんのコラムよりはずっと刺激的であることは請け合いだ。

 今の皇室の始祖となる継体天皇を北陸から擁立した尾張草香や天武天皇のクーデターに功績を成した尾張大隅の名で判る通り、天火明命を祖とするという尾張氏の系譜を古代に遡って考察することは重要な研究となるが、天武天皇の血脈が皇統を継いだ時代の708年武蔵・秩父郡黒谷郷で史上初となる列島からの自然銅発見という快挙を見た。

Gumma Tago-gun.png その3年後となる711年、天武王朝は秩父郡を近くし東山道の通う上野の地の一角に多胡郡と号する小さな郡域を新設している。

 これを記念して斯地に建立された古碑が今も群馬県高崎市吉井町に遺され、碑文は新設される郡を多胡郡と号し"羊"なる者に支配を委ねると記し、多治比三宅麻呂を朝廷における直接の担任長官としたことを伝えている。

 古代王朝が上野の地の一角に新設した郡の号を多胡郡としたことに与った多治比三宅麻呂は往時の朝廷で銅貨を鋳造する職掌に当たっており、三宅麻呂の兄として閣僚経験の有る多治比嶋は『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴公子のモデルとなった人物とされ、嶋の曾孫となる多治比長野もまた閣僚を経験し、長野の娘となる多治比真宗に生ませた桓武天皇の子が葛原親王であって、桓武平氏の祖とされる平高望は葛原親王の孫とされている。

 多胡郡という号は郡の新設に与った多治比氏が中国人の言う処の胡族の流れであったことを示唆し、中国人が言った胡族とは華北より北方の荒漠とした大地に拡がったトルコ系の異民族を指していった辞である。

 確かに、現在北京政府が支配するウイグル族の展がる地と接して、世界の屋根と号されるパミール高原の西麓にタジキスタン共和国が看られ、斯地は往古に東方大遠征を遂げたギリシア人の営む王朝が在ったことで識られる。

 多治比三宅麻呂の後裔は上野と武蔵の国界を成す利根川支流の神流川に臨んだ武蔵・加美郡下で長らく丹荘と号した荘園を営んだことが識られ、『承久記』にて尼将軍・政子が並居る御家人らを前に北武蔵の阿保正隆らの軍勢が鎌倉に到着次第直ちに北条泰時を将として東海道を京に向かって進発せよと檄を飛ばした言辞の中に看る阿保正隆は武蔵・加美郡阿保郷を本貫とした多治比氏を出自とする武家であった。

 多治比三宅麻呂が与かって上野に設けられた新郡の地から三宅麻呂の後裔が荘園を営んだ武蔵・加美郡へ向かう途次の多胡郡下に多比良と号する地名が今も遺され、これが平姓の意を教えて、平姓とは多治比氏の血脈であることを指し、多比良の良の字は多治比の良血を意味し、ラと訓ずるのは羅列の羅の音を藉りたもので、この場合の羅の義は多治比の良血を伝えていることを示す。

 護良親王・恒良親王・義良親王といった後醍醐天皇の子らを古来"もりなが"・"つねなが"・"のりなが"と伝えたのは後醍醐の血が流れるからで、近年の学界が平姓の義を桓武帝が造営した平安京の訓に由来すると考えるのは学究の度を低くする。

 『将門記』にて平将門の配下として見える多治経明は多治比氏を出自とし、この経明こそが秩父平氏や千葉氏の源流を成すと伝える平忠頼の正体であって、平忠頼の子・将恒が秩父平氏の祖となり、忠頼のもう一人の子・常忠が千葉氏の祖となって、相模の大族・三浦氏の祖とされる平忠光を平忠頼の弟とするのは忠頼の頼と忠光の光を併せ頼光となることから源頼光の諱から派した仮冒の名称である。

 さて、武蔵・秩父郡で史上初の自然銅発見が在った3年後の711年、上野に新設された郡下に建立された古碑に記される新郡の支配を天武王朝から委ねられた"羊"なる人物を今も学界は謎として解明できない儘だが、平安朝廷が成した正史『続日本後紀』に833年桓武帝の子・葛原親王の家令を務めた丈部(はせつかべ)氏道に有道姓を賜与したとする記事が看られ、この氏道の祖父に該る人物の従弟に羊なる名を伝えた人物を看る。

 桓武平氏の祖・高望の祖父とされる親王の家令を務めて有道姓を与えられた氏道の玄孫は藤原道長の長兄として一条天皇皇后・定子の父となる中関白・道隆の家令を務めた有道惟広であり、有道氏が朝廷の要路に密着した所以は天武王朝下で武蔵・秩父郡から自然銅を発見した功績と関わるものと推測される。

 749年落成した東大寺大仏に鍍金された資材は列島で史上初となる陸奥での金発見に因り調達されたもので、陸奥・遠田郡涌谷郷で金を発見した人物を丈部大麻呂と伝える。

 この丈部大麻呂こそ有道氏の系譜を伝える古書にて有道姓を与えられた氏道の祖父に該る人物の従弟の子か孫と伝える人物と推測され、為に丈部氏道の祖父の従弟とする羊の後裔を大部と伝えるものと思料される。

 斯様に古代から貴金属の採掘と関わった形跡を示す有道氏のルーツが平安朝廷で地下官人と呼ばれ公家の家柄として認められぬも実務官僚としての職掌を世襲した氏族である中原氏の出自とする志紀氏と関係することを伝える点は非常に興味を惹く。

 平安朝廷で少納言局を世襲して事実上支配した中原氏は鎌倉幕府創業期に『吾妻鏡』が大官令と記す大江広元や中原親能ら文官らの養父と伝える中原広季や信濃・筑摩郡下で大吉祖荘を営み源義仲を扶育した中原兼遠らの名を想起させ、そうした中原氏と平安朝廷の要路に密着した有道氏のルーツが関わりを持つと伝える点は非常に重要である。(続く)  

【ブログ背景画像解題】
 相模湾岸にて江ノ島と南北に向き合う荒崎は湘南の景勝地の一つとして知る人ぞ知る地ですが、源義経の郎党であった鈴木重家の卑属が建立したとの伝承を遺す熊野神社の境内からは爽快な眺めが満喫できます。

 鈴木重家の生家となる紀伊・名草郡藤白浦を本拠とした藤白鈴木家は饒速日(ニギハヤヒ)命の後裔という出雲族の流れとされ、多弁(たわき)宿禰を祖として古代朝廷にて穂積臣と称された水軍の武家でした。

 鎌倉幕府御家人として承久の乱後に尾張守護に補せられ幕府では評定衆を任ぜられた中条家長の後裔は長らく三河・賀茂郡下の高橋荘を営み、中条氏の配下にも藤白鈴木家が在ったことを伝えます。

 徳川家康の高祖父として三河・額田郡下の岩津城を北条早雲こと伊勢宗瑞率いる今川氏の軍勢に囲まれた松平長親の母方祖父を鈴木重勝と伝え、藤白鈴木家から岐れた武家として伊豆半島にて相模湾岸となる稲取岬を拠点とした江梨鈴木家は小田原北条氏の配下にて水軍の将を務めた武家でした。