東海道新幹線が相模川を渡る直前の藤沢市葛原に皇子大社と呼ばれる神社が建つ。

 ちょうど慶応大学湘南藤沢キャンパスの北に該り、葛原の地名は桓武天皇の子・葛原親王に因むという。

 而して、親王を祀るとする神社が建ち、広壮な境内にて大鳥居から社殿に向かって延びる参道を杉林が囲み、清涼感を満喫させる。

 しかし、何故葛原親王に因む痕跡が相模の地の一角に見られるのだろうか?

 親王の兄弟となる平城・嵯峨・淳和天皇らは輩行即位したが、平城・嵯峨の生母は藤原良継の娘、淳和の生母は藤原百川の娘と薬子の変で没落する藤原式家の血統であった。

 然るに、葛原親王の生母は多治比長野の娘であり、妙ちくりんな名を称えた多治比氏は製鉄を業として河内・丹比(たじひ)郡を往古に本拠とした一族であったとする。

 河内・丹比郡というのは応神天皇陵と仁徳天皇陵の間に在った地だが、多治比氏の血統を汲む葛原親王の子孫とされるのが坂東平氏や伊勢平氏だ。

 だが、坂東平氏や伊勢平氏の祖とする平高望の父・高見王が葛原親王の子であったと記すのは14世紀に公家の洞院公定が編んだ『尊卑分脈』だけで、無位無冠と伝え何の行跡も残さぬ高見王の実在を疑う史家が圧倒的だ。

 もっとも、公家の子弟が書いたとされる『愚管抄』は承久の乱の前後に成ったものと考証され、その書にも坂東平氏や伊勢平氏が桓武天皇の子孫であると説かれているから、古く公家社会では武家平氏が桓武天皇の血統であることを信じていたのであろう。

 葛原親王が相模の地に赴任したという話は聞いたことが無く、史家が実在性を疑う高見王のことと相俟って、相模の地の一角に親王に因む地名と神社を看るのは不思議だ。

 しかし、ここにこそ日本の歴史において封建制という中世の歴史を刻んだ謎を解き、日本の国家的起源を知る手がかりが在る。

【ブログ背景画像解題】
 相模湾岸にて江ノ島と南北に向き合う荒崎は湘南の景勝地の一つとして知る人ぞ知る地ですが、源義経の郎党であった鈴木重家の卑属が建立したとの伝承を遺す熊野神社の境内からは爽快な眺めが満喫できます。

 鈴木重家の生家となる紀伊・名草郡藤白浦を本拠とした藤白鈴木家は饒速日(ニギハヤヒ)命の後裔という出雲族の流れとされ、多弁(たわき)宿禰を祖として古代朝廷にて穂積臣と称された水軍の武家でした。

 鎌倉幕府御家人として承久の乱後に尾張守護に補せられ幕府では評定衆を任ぜられた中条家長の後裔は長らく三河・賀茂郡下の高橋荘を営み、中条氏の配下にも藤白鈴木家が在ったことを伝えます。

 徳川家康の高祖父として三河・額田郡下の岩津城を北条早雲こと伊勢宗瑞率いる今川氏の軍勢に囲まれた松平長親の母方祖父を鈴木重勝と伝え、藤白鈴木家から岐れた武家として伊豆半島にて相模湾岸となる稲取岬を拠点とした江梨鈴木家は小田原北条氏の配下にて水軍の将を務めた武家でした。