逗子に別邸を構える日本郵船重役の息であった石原慎太郎さんは神奈川県立湘南高校の同窓であった江藤淳さんと鵠沼の江口朴郎先生の自宅に出入りしていたと聞く。

 為に石原さんはジャン・コクトーやレイモン・ラディゲそしてアーネスト・ヘミングウェイを読みながら東大仏文科への進学課程を受験せず、一橋へ進んだ。

 此処が石原さんの生涯における第一の屈曲点であったと思う。

 レオポルト・フォン・ランケが『強国論』でヴィルヘルム4世を讃えて述べたように偉大な精神は自己自身が世界の中心であることを確信し、たとえ留学先で触れたフランスのエスプリが成した立派な学問に一時は冒されても自身の原理を喪うことなく鍛え上げられた容で復興を果たす如く、一橋で日本における社会心理学の旗頭となった南博のゼミに加わったお蔭で江口朴郎の自宅に通っていた頃の精神は潰えなかった。

 しかしながらジャン・コクトーやレイモン・ラディゲそしてアーネスト・ヘミングウェイを理解する青年には『太陽の季節』を成さざるを得なかった訳で、日本の文壇は仰天した。

 若き石原慎太郎は一橋を卒業する前に日本人社会から作家の烙印を圧された。

 これが石原さんの生涯における第二の屈曲点となってしまった。

 石原さんが既に金権腐敗に塗れていた自民党絶っての願いから実父の本宅が在る東京都の知事選に出馬したのは社会党が推す社会統計学者の美濃部亮吉候補に挑む気概からであった。

 これを以て生来の自由主義政治家・石原慎太郎の精神が覚醒する。

 労働勢力から敗北の烙印を押された若き石原慎太郎は腐った自由民主党を粛清すべく国政への進出を決断する。

 だが、そこに待っていたのは日本という国の構造的な絶ち難い腐敗であった。

 新時代を築く筈の若き自由主義政治家の生命を絶ったのは日本の中枢に巣喰う病魔であった。

【ブログ背景画像解題】
 相模湾岸にて江ノ島と南北に向き合う荒崎は湘南の景勝地の一つとして知る人ぞ知る地ですが、源義経の郎党であった鈴木重家の卑属が建立したとの伝承を遺す熊野神社の境内からは爽快な眺めが満喫できます。

 鈴木重家の生家となる紀伊・名草郡藤白浦を本拠とした藤白鈴木家は饒速日(ニギハヤヒ)命の後裔という出雲族の流れとされ、多弁(たわき)宿禰を祖として古代朝廷にて穂積臣と称された水軍の武家でした。

 鎌倉幕府御家人として承久の乱後に尾張守護に補せられ幕府では評定衆を任ぜられた中条家長の後裔は長らく三河・賀茂郡下の高橋荘を営み、中条氏の配下にも藤白鈴木家が在ったことを伝えます。

 徳川家康の高祖父として三河・額田郡下の岩津城を北条早雲こと伊勢宗瑞率いる今川氏の軍勢に囲まれた松平長親の母方祖父を鈴木重勝と伝え、藤白鈴木家から岐れた武家として伊豆半島にて相模湾岸となる稲取岬を拠点とした江梨鈴木家は小田原北条氏の配下にて水軍の将を務めた武家でした。