壇ノ浦の戦いで朝政を壟断し続けた平家を滅亡させ、朝家からの声望を愈々高めつつ京に凱旋した源義経は兄・頼朝の許しを得ず後白河法皇より官途を授かったことで、頼朝より逐われる身となったとされますが、著者にはちょっとした疑念が泛びます。

 14世紀以降に成立したと考証されている『義経記』など現代に伝えられた古文献はひょっとして歴史の真実を意図的に改竄して後世に偽りごとを伝えた観を得るのです。

 義経は頼朝の弟ではなかった・・・!?

 義経が頼朝の実弟であったならば当然その父は源義朝ということになり、義経が頼朝に追及された藤原泰衡に攻められて1189年に死没した年齢を31歳とするならば、平治の乱に敗れた源義朝が死没した1159年に生まれたことになりますが、頼朝の母は熱田神宮の神職を世襲してきた尾張氏に入婿した藤原南家・巨勢麻呂流となる季範の娘・由良御前と伝え、義経の母は朝廷の女官を務めていた常盤御前とされています。

 少なくも、義経は頼朝とは母を異にしていたことを伝え、その点、義経は頼朝とはまた父をも異にしていたのではないかと疑いたくなるのです。

 幼い頃には京・洛北の郊外たる鞍馬山々中に育ち、京・四条の金売吉次によって鞍馬山から連れ出された牛若丸は奥州の藤原秀衡に庇護されたといいますが、義経の実父は『河源記』なる古文献に顕れる経忠なる人物ではなかったかと思うのです。

 『河源記』とは河内経国という人物の行跡を伝えた書物ですが、河内経国は源義家より河内源氏の惣領の地位を継承した源義忠の子でありながら、父・義忠の叔父となる義光によって父を謀殺され、頼朝の祖父となる為義が河内源氏の居館であった河内・石川郡下の香炉峰の館を強引に接収した為、経国の叔父であり新田・足利両氏の祖となる義国に扶育されたと伝える人物です。

 頼朝の曽祖父となる義親は度重なる殺人の罪科で朝廷より処断の下命を被り、平家の祖となる正盛によって討たれた人物ですが、源義家より河内源氏の惣領の地位を継承した義忠の子となる経国は実に平正盛の娘を母とし、源平の血脈を交えた武家のサラブレッドでした。

 その経国が関東へ下るきっかけとなったのも、父・義忠の叔父となる義光によって父を喪った為であり、下野の足利荘を営む領主に入婿した叔父・義国に扶育されることとなったからでした。

 ですから、経国が大叔父となる源義光を近江の園城寺で討ったのも父・義忠の復仇を計ったものであり、新田・足利両氏の祖となる義国に扶育されることとなり関東の地に縁を得た経国は白河院政期の摂関家であった藤原師実の子である経実の娘を正室としながら、武蔵・児玉郡に蟠踞していた有道経行なる人物の娘を継室に迎え、有道経行が拠点としていた児玉郡下の官営牧場と隣接する山間に河内荘と号する荘園を立券したのです。

 河内経国が正室とした女の父・藤原経実は後白河法皇の長子となる二条天皇の母方祖父となる人物であり、武蔵・児玉郡の僻地に蟠踞していた有道経行なる人物は藤原経実と偏諱を通有することから、京より遠く離れた関東の僻地に在りながらも朝廷の要路と連絡する実力を持っていた人物であったと推測させます。

 そして、この有道経行なる人物は様々な写本を伝え異同を甚だしくする『武蔵七党系図』中の児玉党祖の子に位置付けられ、一条天皇皇后・定子の父であった中関白・道隆の嫡子である藤原伊周の家令職を務めたことが有る有道惟能(これよし)の孫とされます。

 そうした有道経行なる人物の娘を継室に迎え、岳父とした人物の拠点と隣接する武蔵・児玉郡下の山間に荘園を立券した河内経国は正室である藤原経実の娘から盛経という子を儲け、盛経は父・経国が営む武蔵・児玉郡下の荘園と有道経行が拠点とした官営牧場を結ぶ途上となる児玉郡稲沢郷を領地とし、父・経国の母方祖父を平家の祖・正盛とする縁からか、一説に平清盛の祐筆を務めたとする伝承を示します。

 河内経国の子である稲沢盛経の後裔を唱えた武家が紀伊・日高郡下に長らく在って、日高郡下で野長瀬荘を営んだ稲沢氏はウルトラマンやウルトラセブンの演出で識られる野長瀬三摩地を現代に派していますが、斯地は武蔵坊弁慶の出生地との伝承を示しています。

 確かに河内経国の子として稲沢盛経の弟に蓮俊と云う近江の園城寺で得度した僧侶が在ったことを伝え、ひょっとしたらこの蓮俊こそが武蔵坊弁慶であったかも知れません。

 さて、武蔵・児玉郡下の山間に荘園を開いた河内経国には正室とした藤原経実の娘の他に継室として有道経行の娘が在ったことを伝え、『河源記』は経国が有道経行の娘から経忠なる子を儲けたと記しています。

 著者はこの経忠こそ源義経の実父ではなかったかと思うのですが、もしそうだったとすると義経は頼朝の曽祖父となる義親の弟・義忠の曽孫となる人物であったことになります。

 詰まり、義経は頼朝の実弟ではなかったけれども遠い血縁関係には有った訳で、それを頼朝が弟と遇したのは平家を倒し源氏再興の悲願を遂げるべく源氏の血脈を尊重した為と考えられ、しかしながら平家が滅んだ後、京に颯爽と凱旋し後白河法皇より官途を授かった義経に対して、頼朝が危機感を抱き焦燥に駆られたことは確かでしょう。

 何故なれば、頼朝の曽祖父・義親は殺人の罪科に因り朝廷の下命で平正盛に討たれた人物であるのに対し、義経の曽祖父・義忠は紛うこと無く関東の兵らから武家の棟梁と仰がれた八幡太郎義家より河内源氏の惣領の地位を認められた人物であったからで、平家を滅ぼした義経が京に颯爽と凱旋した時、後白河法皇からすれば義経こそゆくゆく近い将来の朝家における武門の長として推す気持ちが有ったのではないでしょうか。

 有道経行なる文科省検定を得た『日本史B』の教科書に決して現れぬ人物の子・行時は上野・多胡郡片山郷を拠点とし、この人物こそ『義経記』に現れて牛若丸を京・洛北郊外の鞍馬山から奥州へと引率した京・四条の金売吉次ではなかったかと思われ、保元の乱から承久の乱の時代を生きた公家の子弟が記したとされる『愚管抄』の巻第六に顕れる"ミセヤノ大夫行時"に該る人物と思われて、有道経行の子・行時の後裔は福沢諭吉翁の主家となる豊前・中津藩主の祖となる奥平氏を派しており、武田勝頼の軍勢に囲まれた長篠城を守った奥平貞昌は織田信長より信の偏諱を与えられて以後信昌とし、奥平信昌の子・忠明は徳川家康の長女と婚じ、松平姓を承けて伊勢・桑名藩主となっています。

 後世に奥平氏を派した有道経行の娘を継室として迎えた河内経国は晩年に京・洛北郊外の鞍馬山に隠棲したと伝える点、以上の考察からも愈々義経が頼朝とは実父を異にしたことが史実であったように思われます。

 『愚管抄』巻第六は"ミセヤノ大夫行時"が娘の一人を比企能員に稼し、その娘が生んだ女が源頼家の子・一幡の母であったとし、比企能員の岳父を渋河兼忠なる人物とする『吾妻鏡』の記述とはかなりの喰い違いを見せ、さらに『愚管抄』は"ミセヤノ大夫行時"のもう一人の娘が有道経行の一族となる者に稼したとする随分と暗示めいた叙述を以て段落を閉じており、当該段落で『愚管抄』が光を当てて叙べている人物こそ北条時政であって、何か『愚管抄』の著者は北条時政の素姓を示唆しているように感じられます。

 北条時政が足立遠元の娘を迎えて儲けた娘が阿波局と思われ、政子・義時の姉弟と胎違いとなる妹は源義経と父母を等しくしたと伝える阿野全成と婚じています。

 父・時政を鎌倉から逐った北条義時が後鳥羽上皇から追討令を受けると義時の姉・政子は鶴ヶ岡の社頭に参集した並居る御家人らを前に「泰時を将に東海道を京に向かって進発せよ」と檄を飛ばしましたが、朝廷の官軍を制した鎌倉軍の将・泰時の母を『吾妻鏡』は唯単に阿波局とのみ記して、泰時の母方祖父の名を明らかにしていません。

 承久の乱を制して鎌倉幕府の権力を不動のものとした北条義時の継室らの父を明らかにしながら、義時の地位を継承した泰時の母方祖父を『吾妻鏡』が明らかにしなかったのは何故でしょうか。

 御成敗式目を制定して後世に名執権と謳われた人物の母方祖父を『吾妻鏡』が明らかにしなかったのは、北条泰時の実父が承久の乱を制した義時ではなかった為であり、北条泰時の実父は北条時政の娘である阿波局と婚じた阿野全成であって、源義経の甥となる者こそ北条泰時であったのです。

 鎌倉軍が平家を滅ぼした快挙は武家の棟梁と仰がれた八幡太郎義家の嫡流となる源義経を将としたことに因る処が大きかったものと思われ、朝廷の発した官軍を制して鎌倉幕府の権力を不動のものとした承久の乱で再び鎌倉軍が奮尽したのも河内源氏の正嫡たる北条泰時を将としたからであって、後鳥羽上皇からの追討令を被りながら朝廷を制した義時は自らの実子を幕府の長に就けることが数多の御家人らを承服させ得ぬことをよく理解し、河内源氏の正嫡となる泰時に自らの地位を継承させることで幕府の力が崩れることを防ぎ得たものと思われます。